人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

青空教室 ~オレとサッカー小僧たちの成長日記~*

サッカーを通してココロを育みます!


by boo-boo-amachan

子供の頃から志は高く

細貝萌『僕らがサッカーボーイズだった頃』より

子供の頃から志は高く_f0231904_20283524.jpg


「雑草のように逞しく、そして明るく育ってほしい」という願いを込めて命名されたという。

細貝家にはすでに3つ上の双子の男の子がいたが、この赤ん坊が加わって、
両親は子育てにてんてこまいだったことが容易に想像できる。

「2人は同じ誕生日だし、七五三とか入学式とか全部一緒じゃないですか。
でも僕だけが違う。それがどうしても納得できなくてね。
だから誕生日は兄ちゃんのときと自分のときと年に2回やってもらってました」と

細貝は幼い頃の自分を恥ずかしそうに打ち明ける。

萌少年はいつも2人の兄にくっついて歩いていた。
「何でも兄ちゃんと同じことができないと嫌だと思ってました」と本人も笑う。
そんな子どもが兄のやっているサッカーを始めるのはごく自然のなりゆきだった。

「ホントはウチの父は自分がやっていた野球をさせたかったみたいなんですよ。
僕らが幼稚園の頃はキャッチボールを熱心にやってましたしね。
でも野球は小学校高学年くらいからしか入れないんで、それまで体力作りをさせるつもりで
サッカーに入れたら、2人ともはまってしまったんです」と拓さんは話す。


萌少年も兄たちを追いかけて広瀬小学校入学と同時に少年団の一員となり、
水曜日の夜の練習と土日の練習、もしくは試合に精力的に通った。
広瀬少年団は選手数の減少によって、
細貝が小5のときに二宮少年団と合併して前橋南FCとなったが、
その後も熱心な活動は続けられた。


細貝3兄弟を指導した片山監督は当時、細貝家の近くに住んでおり、
拓さん・聡さんと自分の息子が同い年ということもあって、
彼らを我が子のように可愛がっていた。

幼稚園の頃、兄の練習を見にきた萌少年に
「お前もボールを蹴ってみるか」と声をかけることもしばしばあったようだ。
少年団ではキャンプ、温泉、スキーなど家族ぐるみのイベントをよく催し、
和気あいあいとした関係を築くように努めていたという。
細貝家の両親がサッカーに対して何ひとつつ口を出さず、
子どもたちの様子を温かく見守っていたのも、この指導者の存在が大きかったのではないか。

萌少年にとっては身近な人だっただけに、
サッカーも優しく指導してもらえると期待しただろう。
ところが、ピッチ上での片山監督の立ち振る舞いは全く違った。

「周りの仲間はフリータッチなのに、自分だけ2タッチとか3タッチだとか制限をつけられて、
ちょっとでもオーバーしたらメッチャ怒られてました。
自分だけいじめられてるのかと思ったくらい」と
細貝はなぜそこまで厳しくされるのか疑問に感じていたようだ。

そんなことをするのは、もちろん理由がある。
萌少年に特別な才能があると片山監督は見抜いたからこそ、
低学年の頃から高い要求を突きつけたのである。

「萌は足が速くてボールも蹴れた。

1、2年生の頃から3、4年生よりうまかったんで、2年生のうちから5年生の大会に出していました。
その時点ですでに2人の兄ちゃんと同じことができていましたからね。
だからこそ先を見据えて指導しないといけないと思った。
より高いスキルや判断力を身につけさせたくて、あえて制限をつけた練習をやらせたんです。

萌自身はできてるつもりでも『そうじゃないよ』とか『もっと早くやれ』とかよく注文をつけてました。
本人は理不尽に思ったでしょうけど、
うまい子にはそのくらい高い意識を持たせる必要がありますからね」


急にハードルを上げるとメゲる子どもも少なくないが、萌少年は必死に食らいついてきた。
片山監督に「なんでシュートを打てるのにパスするんだ」「もっと前から激しく奪いに行けよ」と
苦言を呈されるたび、懸命にやろうと努力する。
うまくいかないときは悔し泣きすることもあった。
聡さんが自主的にランニングに出かける際にも「俺も行く」とついていき、
泣き言ひとつ言わずに同じペースで走っていたという。
こうした負けじ魂や向上心の高さが、彼をメキメキと成長させる。
高学年の頃には関東トレセン入りするほどの逸材に成長していった。

萌少年が頭角を現す1つの大きなきっかけになったのが、
小5のときにFWからトップ下にコンバートされたこと。
それまでの萌少年は前線でゴールを奪うことに喜びを感じるタイプだったが、
周りを使うことのうまさ、戦術眼が抜きんでていたため、
片山監督は少しポジションを下げて全体を見渡しながらゲームメークさせた方がいいと判断したのだ。


「昔の群馬の選手はとにかく下手でね。その現状を目の当たりにして、強烈なストライカーより、
ボールを持ててゲームを作れる子を育てようという機運が地元関係者の間で高まっていきました。

その先陣を切ってテクニシャン育成に力を注いでいたのが、小林勉さんが指導していたFC前橋ジュニア。
ワンタッチでつなげる選手をたくさん出しているこのチームを見ていて、
自分もかなり触発され、萌もスキルの高い選手にしたいと考えました。
あのままFWで育てていたらどうなっていたんだろうと考えることはありますが、
彼の適性を考えると中盤でよかったのかなと思いますね」と片山監督は話す。

こうしてゲームメーカーとしての道を歩むことになった細貝。
そんな彼の小学校時代の一番の思い出は、小6秋のGTV少年サッカー大会優勝だ。
前橋育英と前橋商業の間で争われた
高校サッカー選手権大会群馬県予選の前座として決勝戦が行われ、
大勢の観客の前で高崎FCイーグルと対戦した。
すでにFC前橋ジュニア、FC邑楽といった群馬県の強豪を次々と撃破した前橋南FCとしては、
それほど難しい相手ではなかった。
萌少年がしっかりとゲームをコントロールし、3-2で勝利。
長年、小学生を指導してきた片山監督にとっても、県優勝はこれが最初で最後というから、
感慨深いものがあったに違いない。


「遊びでボールを蹴らしてもらった幼稚園の頃から7年くらい1人の監督にしっかり見てもらったのは、
自分にとってもすごく大きかったと思うんですよ。
何もできない自分にしっかり技術を叩き込んでくれたし、個性を伸ばしてくれましたから。
あの頃はホントに怒られてばっかりですごい怖かったけど、
厳しく教えてくれたから今があると思います」と

細貝は小学校時代の片山監督の熱血指導をありがたく感じている。
そこで厳しくも愛情を持って叩き込まれた基本が、プロになった今に生きているのは間違いない。
by boo-boo-amachan | 2013-01-19 20:33 | サッカー